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益田で秦佐八郎博士没後70周年記念事業始まる

 梅毒の特効薬を発見し、ノーベル医学賞候補にもなった秦佐八郎博士(一八七三-一九三八年)の没後七十周年記念事業が二十二日、二日間の日程で博士出身地の益田市美都町で始まった。初日は胸像除幕式や記念式典などがあり、世界に名をとどろかせた化学療法の先駆者の偉業をたたえた。

 除幕式は、庄屋山根家の八男として生まれ、地元医師・秦家に養子入りまでの十四年間を過ごした、同町都茂の生家敷地に立つ秦記念館前で開催。博士の孫に当たる秦茂樹さん(60)、宏樹さん(55)兄弟=東京都在住=ら関係者十一人が、紅白の綱を引いた。

 台座に立つ胸像は等身大の銅製で、高さ六十センチ。一九六四年、彫刻家中野素昴(そこう)が博士の偉業に心を打たれて制作。博士寄贈の旧美都町図書館前にあったが、三十六年前に旧町役場前に移され、今回は記念事業の一環で生家への”里帰り”が実現した。

 博士愛用のシルクハットを披露し、市に寄贈した秦さん兄弟は「寡黙だった祖父も喜んでいることでしょう」。生家に嫁いだ山根千鶴子さん(70)も「胸像と向かい合う形で、敷地近くに博士の実父の墓があり、親子の対面ですね」と感慨深そうに話した。

 式典はふれあいホールみとであり、博士の母校・岡山大学や師事した北里柴三郎の記念室関係者、博士関連の資料展示する美都中の生徒ら約三百五十人が出席。続くシンポジウムでは、同実行委員会の児高房夫会長らが「今も生き続ける世界的な医学者」をテーマに、秦博士の実像に迫った。

 最終日は、同ホールを会場に講演会や映画上映会がある。

→医療業界、特に感染症・薬剤関係の人は必ず知っている偉大な研究者です。博士に続く偉大な研究者が日本から輩出されるように私を含めて頑張らねばなりませんね。

<秦佐八郎博士について:wikipediaより>

島根県美濃郡都茂村(現益田市)に豪農・山根道恭とヒデの十四人兄弟の八男として生まれる。14歳の時に姻戚である秦家より養子に迎えられた。代々医師の家系であった秦家には当時一人娘しかいなかった為に、兄弟の中で成績が優秀であった佐八郎に白羽の矢がたったのである。その際、秦家より「岡山で勉強が出来る」と言われたのも少年であった佐八郎が養子に行く決心をした理由の一つであろう。

養子になった佐八郎は1891年私立岡山薬学校(現関西高等学校)を卒業後、岡山第3高等中学校(後高等学校・岡山大学医学部の前身)医学部に入学する。中学校では大変優秀であり、他の学生や教師からも一目置かれる存在であった。

1年間の兵役を終えたあと1897年(明治30年)岡山県立病院助手になり、その後1898年伝染病研究所に入所した。岡山県立病院では井上善次郎から内科学、荒木寅三郎からは医化学を学んだ記録が残っている。その頃佐八郎は東京で医学の勉強をするべく上京を考えていた。そして1898年(明治31年)8月に荒木寅三郎の推薦により、上京し大日本私立衛生会経営の伝染病研究所に入所、そこで北里柴三郎に学ぶこととなった。

研究所には10年間在籍し、その間日露戦争軍医として従軍する。その時の働きが認められて1907年からドイツに留学することとなる。 コッホ研究所などを経て、1910年フランクフルト国立実験治療研究所所長のエールリヒと共同で梅毒の特効薬サルバルサンを開発し、同年帰国した。

日本帰国後は北里研究所副所長、慶應義塾大学医学部教授などを務めた。帝国学士院(のちの日本学士院)会員。

1938年(昭和13年)11月29日、医学に全てを捧げた65年の人生に幕を閉じた。

現在、秦佐八郎博士の業績を称え後世に永くその名を伝える事を目的として、社団法人日本化学療法学会では「志賀 潔・秦 佐八郎記念賞」を設けている。

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